いづどのぐう
泉 殿 宮
IDUDONOGU
泉の如く「力」湧き出る

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本殿手水舎前より晴
■御 由 諸













                     












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当宮往古は、次田ノ社と称え奉り、河内の次田連の祖神 天香山命を氏神として、五穀の神「宇迦之御魂大神(うがのみたまのおおかみ)」[伏見稲荷大社の御祭神]を祀(まつ)る。第56代清和天皇貞観(じょうがん)11年(西暦869年)当地久しく旱魃(かんばつ)、草木は色を変じ、大河の流れも通わず、天下疫病流行し、諸民悉(ことごと)く枯渇(こかつ)に苦しむ。播磨(姫路)の広峯神社より王城鎮護(おうじょうちんご)の守り神として[祇園八坂神社]の御祭神として迎えられる「建速須佐之男大神」(たけはや すさのお の おおかみ)]の御神輿が、しばらく当宮にお立ち寄りになられた。大神に祝詞を奏上し、獅子頭を激しく振り、歎きを告げ、篤(あつ)く雨を祈ると、忽然と清泉土中より湧漲(ゆうちょう)した。立ち処に、里人渇(かつ)を免(まぬ)がれ、田畑隈(くま)なく潅水(かんすい)した。よって、建速須佐之男大神を勧請し相殿として斎き祀る。この雨乞いの状と雨を喜ぶ童子の姿は、吹田市地域無形民俗文化財の「泉殿宮神楽獅子(いづどのぐうかぐらじし)」の所作となっている。

  明治22年(西暦1889年)、「泉殿霊泉」をドイツのミュンヘンに送り、これビール醸造(じょうぞう)に適水との保証を得、当宮隣接地に同水系の湧水を以って、東洋初のビール醸造工場(現、アサヒビール叶%c工場)建設の逸話がある。その後、近隣の都市化に伴い上水道は普及し、又、かつての広々とした水田が殆ど姿を消したのを見届けるかのように、霊泉は地中奥深くに水脈を移し、今は、湧水していない。

  当宮は、国家権力の保護を求めない庶民信仰に支えられたる諸社にして、創祀(そうし)以来、氏子の信倚(しんい)のもと、代々藤原姓南家「宮脇家」祀職(ししょく)を奉仕するところ、天保8年(西暦1837年)大塩平八郎義兵の挙あり、当宮第32代宮司・宮脇志摩は、大塩平八郎の叔父に当たり、乱の主謀者として寺社方捕手役人の囲みに、この地にて切腹。課刑峻烈(かけいしゅんれつ)にして、男児悉く遠島、家門闕所となり、社運も傾くかに見えたが、明治維新と共にその義挙を認められ、流刑地に生存の遺児総て赦免(しゃめん)・出島(でじま)仰せ付けられ、家門再興、宮脇志津摩(しづま)・泉殿宮第33代宮司を嗣(つ)ぎ、社運再び赫赫(かくかく)として今に到る。
 
  昭和45年「人類の進歩と調和」をテーマに開催された日本万国博覧会会場建設の地鎮祭(じちんさい)・立柱祭(りっちゅうさい)等、一連の祭典は、当宮宮司が斎主(さいしゅ)をお仕え申し上げた。祭儀に使用された元柱(もとつはしら)[木曽50年杉]は、当宮に奉建され無事成功を祈念してきた。 日本万国博が掲げた「科学の進歩と人間尊重の精神」が、永く受け継がれるよう、境内に祀られている。