|
■大塩平八郎
あらまし
大阪町奉行所の与力 大塩平八郎の叔父(父親の弟)の宮脇志摩は、はじめ大塩権八郎といったが、文政2(1819)年に第31代宮司宮脇日向の養子となり宮脇理加と結婚し第32代宮司となった。
天保8(1837)年に大塩平八郎が悪徳商人や豪商らの不正を正し、窮民を救おうと決心し、門弟や同志を集め行動を起した。「救民」の旗を押したて、大阪市内の鴻池やその他の豪商の蔵の中の金銀や米を取り上げ、窮民に配ろうとしたが、幕府の軍隊にくい止められ、わずか1日のうちにとりしずめられてしまった。しかしこの事件は、たちまち全国に伝わり、民衆のために、一身や家族親族を犠牲にして立ち上がった行動は、人々に心からの共感をよび起した。
当時の背景
「天保の大飢饉」といわれるように天保4年あたりから米の値段が上がり始め、米1石の値段が銀60〜80目のものが、天保7年には、180目までになった。天保8年になってますます米価は高騰し、吹田村三方(御料方、竹中領、柘植領)では、32石の米を出し合い粥を炊いて神崎川沿いで炊き出しが行われた。
大阪町奉行所では、米の買占めをする悪徳商人を取り締まり、大商人らには施し銭や施し米をするよう奨励し、種籾を残し、できるだけ残りの米を払い下げるよう努力したが、この大凶作には、どの方法も効果がなかった。
与力在職中には、奉行に重用され、汚職、邪教などを厳重に処分し、敏腕を奮った。与力職を息子格之介に譲り、「洗心洞」という家塾を開き、「知識は身をもって実行する 知行合一」の陽明学を弟子たちに説いていた。新たな奉行は、大塩の大飢饉の窮民救済の意見を聞き入れるどころか、大量の米をひそかに江戸に送っていた。
奉行の不正や人々の苦しみを見ていて、平八郎も志摩も自分の蔵書を売り払いその代金を窮民に分け与え、役人や大商人に米蔵を開くように説いたが、聞き入れられず、奉行は、この行いを売名行為だとそしり、民衆の苦しみをよそに、役人や大商人たちと遊楽にふけっていた。
その後の宮脇家
宮脇志摩は、当宮第32代宮司であり、大塩平八郎の叔父、同志の一人で、大砲の車台に名を刻むほどであったが、密告者のために乱が早まった為に参加できずに、長柄の渡し場まで駆けつけたが、乱鎮圧を知り、自宅へ引き返した。翌2月20日、与力2人、同心22人、尼崎藩兵250人余りが宮脇家を取り囲んだ。志摩は自宅にて切腹し、家のものに「只今、宮脇志摩は、自刃いたしました」と三宝の上に載せたはらわたを見せた処、捕らえられる事もなく引き返した。その後、直ちにはらわたを腹に詰め込みさらしを巻いて、槍を杖に、止める妻 理加 を突き飛ばし、目はもうろうとして「まだ役人は居るのか」と更に止める、義母 直 を槍で突き伏せ、大阪市内へと向かったが、庄本村のため池にはまり亡くなった。
宮脇志摩(有妥)は、41歳で亡くなり、死体を塩漬けにされ、磔(はりつけ)の刑となる。当時の刑罰は、当事者だけでなく、家族にまで及んだ。長男発太郎は天草島に、次男慎次郎は壱岐に、特に三男辰三郎は、乱当時お腹の中にいて、7歳になり隠岐に流された。当時の決まりでは、島流しは15歳まで待つのが通例であったが、よほど幕府への衝撃が大きかったのか倍以上早まり、童流人と民衆の涙を誘った。島の庄屋さんがとても親切で、読み書き算盤を手ほどきし、島の娘と結婚し子どもも設けた。
吹田で留守を守る妻理加は、「三島の三ばばあ」といわれながらも、筆舌に尽くしがたい状況で当宮と宮脇家を守った、明治になり赦免出島仰せ付けられ、再三に亘り帰って来る様うながしたが、島の生活もあり、躊躇したが、後ろ髪を引かれる思いで、単身三男辰三郎は吹田へ戻り、宮脇家を相続し、第33代宮司宮脇志津摩と名のり宮脇八重と結婚し79歳で亡くなる。
宮脇八重に当時の様子を少しでも書きとめておけばと第34代宮司で吹田市の助役だった宮脇芳三は頼んだが、「もう大塩の事は言うな」と口を閉ざしていた。 |